こんにちは!
らかんです。
さて、今回も体の具体的な症状とそれらに関するメッセージをお届けしていきます。
今回の内容は【事故】についてです^^
事故は予測できませんので、私たちは自己を偶然の産物と見なします。
しかし<偶然>というのは神が私たちに語りかけるために使う一つの手段に他ならないと考えています。
ですから、体のどの部分に怪我をしたのか、また怪我の重大さはどれくらいなのか、ということに注目する必要があるでしょう。
事故によって骨折した場合は「骨折」の項も参考にしてください。
感情体の面での解説
事故が起こったということは、その人が罪悪感を感じているということです。
あるいは自分の何かを責めているということです。
例えば母親が家事をしているとき、子供が他の部屋から彼女を呼んだとしましょう。
母親は聞こえないふりをして家事を続けます。
ところがしばらくすると彼女は転んで脚を怪我するのです。
「私は何を考えていたのだろう?」と自問してみればただちに自分を悪い母親だと考えていたことがわかります。
したがって悪い母親に相応しいように体の一部を傷つけたのです。
事故に遭うのは私たちが自分の罪悪感を中和するためです。
事故に遭うことによって自分の罪悪感に対する支払いを行うのです。
しかもそれは無意識の内になされます。
精神体の面での解説
罪悪感に対するあなたの考え方を見直す必要があるでしょう。
私たちの法律体系においてはある人が意図的に悪を行ったと立証された時に初めてその人は有罪であるとされます。
ですから、今後あなたが罪悪感を感じた場合、あなたは本当に悪をなそうと意図していたかということを自問していただきたいのです。
もしそうでないのならばあなたは自分を責めることをやめなければなりません。あなたは自分を罰する必要などないのです。
先程の母親の例について考えてみましょう。
この母親は自分の子供に悪をなそうと思っていたのでしょうか?
そもそもある人が実際に悪いことをした場合<原因と結果の法則>が働いてその人を罰します。
というのも全ては私たちの意図に応じてブーメランのように必ず私たちのところに返ってくるからです。
ですから、知恵と責任感のある人というのは自分が実際に罪を犯した時に自分の罪を認め、相手に謝り、いずれその報いが自分にやってくることを受け入れる人のことです。
そういう人はその報いを静かに受け入れ、心を乱すことがないでしょう。つまり、自分の罪に意識的であることができるのです。
全てが神の正義に基づいて起こること、全てが神聖な秩序の内にあることを知っているわけです。
もしあなたが休息の時間を作るために、無意識の内に事故を起こしたのだとすれば、あなたはそんなふうに自分に痛みを与えなくても休みの時間を取ることはできたのだ、ということを理解する必要があります。
自分の要求に応えるためにはもっと簡単な方法もある、ということを知らなければなりません。
もし、事故が重大なものであって、骨折のようなひどい痛みを伴う結果を引き起こしたとすれば、それはあなたが他の人に対して攻撃的な思いを持っていた、ということも示しています。
そして、その思いは必ずしもあなたによって意識化されていたとは限りません。
そうした攻撃的な思いを持っていることをあなたは自分に対して許せないのです。
そして、その攻撃的な思いが自分自身に向けられたわけです。
ですから、そんな場合にはあなたはその人に対する思いを上手に表現し、自分自身を解放しなければなりません。その際にそういう思いを持った自分を許すことが非常に大切です。